ジャンル: お題:楽観的な過ち 制限時間:30分 読者:58 人 文字数:2346字 お気に入り:0人

※未完

「上着は」
「要らない」
 5分もすれば獅子丸のブルゾンを追い剥いでいくだろう。「ねえ」と拗ねた声音を目線もやらずに黙殺すると、数秒してピッ、と背中越しに遠く聞き慣れた車の施錠音が響いた。

 なだらかな下り坂かと思えば、入り組んだ小道の途中で雑に段差になっている。iPhoneのライトを起動して足元を照らす。お前は、と促すと新兎は馬鹿なので「大丈夫目慣れてきた」と言ったそばから段差で滑って転びかけ、それから大人しく自前のライトを点けた。
「あー靴砂入った……」
「当然の結果だな」
「ちょっと肩貸せよ」
「嫌だ」
 ふらつきもせず大人しく1人で砂を出し履き直す。無駄に食い下がらなくなったあたり学習したなと思う。面倒なのか紐の縛り方が随分雑なので、あれではすぐに解けるだろうが。
「お。湖〜~」
 坂の終わりは思いのほか駐車場から近く、湖岸は水際まで数メートルに満たないほど短かった。裾を仕舞いそびれた薄いシャツの中で体を泳がせながら、声を上げた新兎がふらふらと水の縁へと寄って行く。
 この辺りは、ちょうど平べったい楕円の湖が、端から摘みあげられた形に出っ張った突起の部分に当たるだろう。繁華街とは殆ど対になる位置で、遠く向こうの高台にあるホテルやライトアップのぽつりぽつりとした静かな灯が、短く棚引くように湖面に光を落としている。
 海と違い川の流入もなく、閉じられた水面は静穏だ。それでも対岸から渡ってくる微かな夜風が、蠢くように小さな細波をこちらに向かって打ち上げている。中央は黒々に夜空を映して濃いインクを垂らしたように僅か青みを帯び、ほとりに近づくほど透明度の高い薄墨。窪地に閉じ込められた冷たい水の塊が、ただ茫洋と横たわっている。
 新兎はしばらく無言で眺めているようだった。行き場のないどん詰まりの風景を。
 ほとんど坂路の位置で足を止めた獅子丸には、すうと伸びたその背中しか見えない。新兎がたまに風向きを気にして髪を払うとき、子供のようにすべらかな頬の輪郭が、わずかな夜光を集めて仄白く光る。
 いつだか新兎にチケットを強請ったことのあるバンドの曲が脳裏をよぎり、てめえも、泣くならまだ面倒でないのに、と散漫な思考の中で薄く目を細めた。
 いっそぐちゃぐちゃに泣かせてやったら満足するだろうかと試したことなどいくらでもある。濁った溜飲を嵐のように暴力で以って押し流し、濁った水の底まで暴いてやったらと。無駄だったとは言わない。けれどそうしていっとき気がせいたとしても、わだかまりの底につかえたものが残っているなら、すぐにまた水は淀むのだ。どれほど上辺を流して新しく汲んでやったところで、泥沼の底を浚いきってやれねばあまりにきりがなかった。新兎と獅子丸は結局は赤の他人同士、薄い皮膚の膜で区切られていて、だから獅子丸が新兎にしてやれることは限られている。
 どれほどそうして1人と1人が立ち尽くしていたか分からない。寒さも感じないまま弱々しい波音を聞いていた。ふつりと対岸で灯が1つ消える。そういえば今夜は月も星も見えない。上向くと、幾重にも重なる積雲が夜に濃淡をつけるように立ち込めていた。
 こつりと爪先で細い流木の枝を蹴る。たたん、とゆるく傾斜した岸辺を転がり、それは獅子丸と新兎の半ばほどで止まる。後ろ姿のままの踵まであと数歩の位置。
 新兎がふと振り返った。
「やっぱ目、もう慣れたって」
 眠らぬ薄明かりを後ろに背負い、笑った顔はほとんど平素の色を取り戻している。春の夜更けに相応しい清新。水を含んだ空気に白く透けるシャツの輪郭さえ、どこか確かなものになる。馬鹿じゃねえの、と口の中で呟いた獅子丸に、新兎はまた吐息だけで笑った。
「もうねえ、見えるね、どこまで湖か余裕」
 言いながらぱしゃりと足先で跳ねる水音。つめた、と小さく上がる高い声。
 ――馬鹿じゃねえのと思う。獅子丸はずっと思っている。ずっとずっと思っている。制服を着込んだ学生の頃からずっと、毎日同じ部屋の隣合ったベッドで寝ていた頃から。
 新兎千里という男はいつもそうだ。勝手に悩んで勝手に落ち込んで勝手に突っかかりまたは勝手にいなくなり勝手に回復して勝手に去っていく。それは生来のポジティブさや自信の表れからきているものではなく、どうにも生い立ちやそこで形成された性根のせいらしかった。若手敏腕探偵の名をして「らしい」と言い回すのも釈然としないが、そのあたり新兎本人がさらさら打ち明ける気がないので仕方がない。新兎本人にもあれこれと混ざり合った泥の成分比など正確にはわかりかねるのだろう。獅子丸も獅子丸でそれを無理に問い正さない。必要を感じなかった。なにせ新兎のその無遠慮さが惜しげもなく発揮されるのは、獅子丸相手にだけだったので。
 濡れちゃった、と年甲斐なく履いたままのスニーカーを揺する男に深く根張った家庭問題の、すったもんだ紆余曲折には一応の決着がついている。納得できていない訳ではないのだろう。それでも物心つく前から思春期まで貫いてきた、自己流の「新兎千里」の保ち方までは、そう簡単に変わるものではない。楔のように深く沈みこんだ澱が溶けて消え去るまで、騙し騙しやっていくしかない。けれど。
 獅子丸、と新兎がやわらかく名前を呼ぶ。目元に差すほのかな赤。透ける橙

 知ってる?このすぐ近くさ、美味しいケーキ屋さんがあるんだよ。去年の舞台でスタッフさんに教えてもらったんだけどね。雑貨とかも置いてるお洒落なカフェで、紅茶がたくさんあって、混むんだけど朝イチ行けば大丈夫で、テラスもあって夏場は犬連れの人なんかもいるんだって、だから今度はさ、

「今度はさ、いつか晴れた昼間に来ような」

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