ジャンル:HOSPITAL.6人の医師 お題:愛と欲望の天才 制限時間:4時間 読者:297 人 文字数:3547字 お気に入り:0人

翻弄されて、崩壊/前





早くより危機感はあった。今の精神状態のままマリアと過ごすべきではないということも理解していた。

朝、マリアの姿を見た時、……パラメディックジャケットから見え隠れする華奢な肩口や細い肢体が目に入った時、俺の中であらぬ欲が尾を覗かせるのを感じた。
その感覚も、酸化した血のようなどす黒さを帯びた欲望も、既によく知っているものだ。緊張や疲労に極限まで追い詰められた時、俺の内部で暴れ出すかのようにそれが姿を表すことが度々あった。
感情が無い人間にも等しかった俺が、何故こんなものを感じるようになったのか、…否、だからこそその反動でこのような欲を強く染み出させてしまうのか。それはよくわからないままだ。

手術時は無心になれたが、予期せぬ欲情のような衝動は平常時にはじわりと俺を苛んだ。カルテを読みながら素数を数えてみても、収束には至らない。
最たる問題は、その日がマリアと共に過ごすという約束を結んでいた日だったということだ。
今からでもその予定を取り消すのが最善の選択だということは理解していたが、できるはずもなかった。

感情や欲望を押し殺す術は心得ている。両親に迫害されていた時も、冤罪で逮捕された時も、冷凍監獄にいた時も、…今までずっと、そうしてきたのだから。
…同じことだ。今日もそうすればいい。何の問題もないのだ。そう言い聞かせていた。






「おい、大丈夫か?」
かちりとソーサーが置かれる音と共に、近距離から恋人の声がした。その小さな二つの音が、俺の思考を柔らかく断ち切る。
その思考に変わり脳へ入り込む、先刻までの記憶という情報。
「…なんか悩んでんのか? それだったら、話くらいは聞くぜ?」
……ここはマリアの家だ。彼女のバイクの後部座席に乗せてもらい、着いたのが恐らく十数分ほど前。今、目の前にある紅茶は、……家に着いてから少し置いて、喉が渇いたと溢した記憶がある。恐らくはマリアが俺に淹れてくれたものだろう。
柔らかな柑橘系の芳香が嗅覚をくすぐっている。蜂蜜色の液体の中では、普段通りのこわばった俺の顔が揺れた。
「……あぁ、どうということはない。少し…疲れているだけだ」
マリアに伝えるわけにはいかないと、意志は以前より固めていた。もし知られてしまえば、マリアは恐らく、…何らかの形で俺を助けようとするだろう。俺はそれに甘えて、コントロールから外れた欲求の矛先を彼女に向けてしまうとも知れないのだ。
そんなことをしていいはずもない。これは、俺の内部で完結させるべきものだ。俺が耐えていればそれで済む。
「けどよ……さっきから、疲れてるだけにしては妙に顔色悪いぜ。……具合でも悪いのか?」
普段よりも憂慮を色濃く浮かべた相貌が、俺の顔を覗き込むようにして近付いた。次いで、傍から無遠慮に右腕が伸びてくる。その先にある掌が、俺の額に当てられた。
革のグローブは既にその手から取り外されている。何の隔たりもなく素肌が触れたという事実のみで、僅かな体温の差すらも、今の俺には感じられるようだった。
額を覆っている前髪を払った五本の指が、頭蓋の上の皮膚をなぞるように滑る。些細な手の動きの一つ一つすらも酷く鮮明に感じて、背筋がぞくりと痺れを帯びる。
「ん……よし。熱はねぇみたいだな」
「マリア……俺は健康体だ」
「…いいや、信用ならねぇな」
「……これは体の不調から来るものじゃないんだ。本当に、……!」
脈までも取ろうとしていたのだろうか、二度俺の肌に触れようと伸びてきたその腕に焦りが走る。
思わず咄嗟に、その腕を掴んでいた。
強い焦燥が身体にも現れていたのだろうか。想像以上に力を入れて腕を握ってしまったらしい。首に指を当てがう寸前で動きを止めたマリアが、驚きに相貌を見開いて俺を見据える。
「…………なぁ、お前…本当に、」
どうかしたのか、と。そう躊躇いがちに尋ねてくるマリアの表情と声のトーンが、胸に刺すような痛みを生じさせる。
何を言うべきか迷い、手持ち無沙汰になり、ひとまず掴んだままだった細い腕から手を離した。
「マリア、今日は……俺との接触は、手までに留めてくれないか」
「……何でだよ? アタシに触られんのが嫌だってか?」
「違う、そうではないんだ。……お前に触れることが、恐ろしいんだ」
「はあ…?」
声を出す際の引きつるような感覚に、喉が渇いていたことをそこで思い出す。カップを手に取り、揺れる水面ごと紅茶を飲み干した。
爽やかな香りが精神の逸りを落ち着かせてくれるかもしれないと期待したが、熱湯が食道から胃にかけてをじわりと熱くしたのみだった。
「…時折、自分の欲望が制御できなくなることがある。感情の昂りか、疲労による精神の乱れによるものなのかは定かではないが……とにかく、今の俺はその状態にある。……今、お前の体温や感触を肌に感じて……自我を保っていられる保証がない」
言い進むにつれ、顔の俯き加減が深くなっていくような自覚があった。マリアの足のみが映る視界で、頭上から溜息のような音が耳に入る。
やはり呆れられたかと思った次の瞬間、ぴとりと頰に何かが触れた。俺よりも少し体温が高いそれは、先ほどまで額に当たっていたマリアの手に他ならなかった。
しかも、その押し当て方は、……体温を測った時とは違い、皮膚同士の接触を目的としている。そんな印象を抱かせるようなものだ。
「…俺の話を、聞いていなかったのか」
「…さっきから小難しく言ってるけどよ。要するに、えーっと、……そういうこと、なんだろ? だったら別に…その、なんだ……断る理由もねぇしさ」
マリアのその言葉は間欠的で、少し歯切れが悪いようにも感じられた。しかしそれは恐怖から来るものではなく、羞恥で声を詰まらせているためなのだろう。
……マリアは、わかっているつもりでいる。しかし実際は、俺の意図の断片すらも認識できていない。
「……やめてくれ。この状況下で今お前に触れてしまったら、何をしてしまうのかもわからない。……あまりにリスクが高すぎる」
「……何、言ってんだよ?」
「…俺は、……」
俺自身に引き止められているような感覚と、強い躊躇。開いたままの口を閉じかけたが、しかし、ここまで胸の内を曝け出してしまった以上、残った片割れの感情も隠しきれる保証はどこにもない。
「……俺自身、よくわからないんだ。お前が壊れてしまうほどに手酷い扱いをしたいと、…そんなことを考えているような俺がいる。……俺は、お前を大事にしたい。だがそう思っている一方で、そんな欲求も同時に存在していることを……否定できない」
あまりに矛盾した欲望だと思う。優しく扱いたい、しかし酷くしたいとも感じるなど。
マリアという人間に対して、俺はこれに類似したような、食い違った感情を以前より抱き続けていた。だが、経験したことのないようなその精神の揺らぎへの対処法を、俺が知っているはずもない。ただ表に出していいようなものではないのだと、それだけを本能では勘付いていた。
だからこんな得体の知れないものを露わにして傷付けてしまうのならば、自然消滅するまで押し殺してしまえばいいと。そう思っていたのだ。
……いや、それしか術を知らなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
だが、それも無駄だ。こんな欲を抱いていたことを、露顕してしまったのだから。
「……いいぜ、しても」
それまで口を閉じて、俺の言葉に耳を傾けていたマリアが、俺が言い終わった瞬間に動いてた。頰を包んだ掌のように、柔らかく耳朶をくるむ声が耳元で揺れる。
やめてくれ、という言葉を飲む形で承諾を示してくれるだろう。そう思っていただけに、囁くようなマリアの声は激しく食らうように俺の脳髄を打った。
「……何を……言っている?」
「……。…お、お前になら何されたって平気だって、…そう言ってるんだよ」
その瞬間、声帯も、表情も、手足も、俺の全てが動きを止めた。
暖炉の中で炎が爆ぜる音と時計の秒針のみが時を刻んでいるような部屋の中に、増加する心拍数の鼓波が転がる。
「マリア、俺は、……お前を、傷付けたくは…」
「馬鹿、アタシは傷付いたりなんかしねぇって。アタシがそんなヤワな女に見えんのか?」
「……それとこの話は、全く別だろう」
「うるせぇな。アタシがいいっつってんのに、何渋ってんだよ? ……うだうだ迷ってねぇで、いいから早く来いって」
力強くも甘い声が耳に触れては注がれる。その吐息が、鼓膜を湿らせていくようにも感じられた。
「……マリア」
既にひび割れ、崩落しかけていた理性に、誘うように差し伸べられたその手はあまりに甘美すぎた。


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