ジャンル:Fate/Grand Order お題:激しい海 制限時間:1時間 読者:49 人 文字数:3034字 お気に入り:0人

真夜中だけがぼくらにやさしい4

「最近はどうだい?」
 よく休めているか、と工房を訪れた立香にダ・ヴィンチはおもむろに問いかけた。その声は軽やかに鼓膜をふるわせて、深刻に考えないようにと気遣ってくれているようだった。一緒にやってきていたマシュが息を呑み、自分の答えに耳を澄ましているのをはっきりと感じる。こちらにプレッシャーを与えないために、もしかしたら聞きたいのを我慢していたのかもしれない。立香はわずかに口角を持ち上げて、薄い笑みを浮かべた。
「だいじょうぶ、だよ」
 肩をすくめて、ぽつりと告げた声は自分でも思った以上に弱々しいものだった。眠れないようになってから、もうどれくらい経っているかわからない。気が遠くなるほどの日々に感じるけれど、意外に短いのかもしれない。とはいえ、正確な日数は実のところそう重要ではない。こうして疲れを覚えているのだから、それが心と体に与える悪影響は確かにあるということのほうに問題がある。以前は大丈夫だと精いっぱいの笑みを浮かべられていたのに、もう誤魔化す気力がなくなっている。その事実を己のくちびるからこぼれ落ちた声によって思い知りながら、立香は力なく眉を寄せてくちびるを引き結んだ。冗談めかしてひょいと肩をすくめてみたけれど、無性に体が重く感じて、すぐに肩を落としてしまう。
 ダ・ヴィンチはめずらしく、沈痛さをにじませながら立香を見つめていた。いつもは好奇心にきらめいている双眸が、今は少し沈んだ色になっている。自分のせいかと思うと申し訳なさを覚えるが、もはや虚勢を張れるときは過ぎていた。
「重症のようだね」
 深く嘆息しながら、ダ・ヴィンチがつぶやく。そっと右手を伸びてきて頬に触れる。手袋越しの手のひらにそっと寄り添いながら、立香は小さな声で「そんなこと、ないさ」といらえた。うつくしい碧眼がわずかに見開かれたかと思うと、鮮やかなくちびるがかすかにふるえる。
「やれやれ」
 ため息とともに吐き出されたその声は、何とも言えない色を孕んでいた。困惑、呆れ、心配、たぶんそんなものがないまぜになっている。彼女たちに、心配をかけてはいけない。それにまだ、自分はだいじょうぶだ。頑張れる。頑張らなければいけない。立香は慌てて自分にそう言い聞かせると、ダ・ヴィンチの手から逃れるように体を引いた。にっこりと努めて口の端を持ち上げて、今できる全力の笑みを作りあげる。
「なんてね。冗談だよ。オレはだいじょうぶだから、心配しないで」
 心なしか早口にそう言って、椅子から立ち上がる。せんぱい、と上ずった声で呼びかけてくるマシュにも張り付けた笑みを見せたあと、立香は工房を後にした。
(危なかった、)
 うっかり、弱音を吐露してしまうところだった。あの言葉でちゃんと、彼女たちは納得してくれただろうか。もともとあまり嘘は得意ではないが、それにしても不自然だったかもしれない。

 幸いと言うべきか、本の読み聞かせは一週間ほどで終わった。
「いらっしゃい。今日は何の本にする?」
 マイルームのドアを開けると、立香はそう言いながら手を差し出した。しかし、本が載せられることを待っていた手のひらに触れたのは、ナーサリーの小さな手だった。
「マスターはとてもおじょうずなのだけれど、だからこそ、途中で寝てしまうのがもったいないと思うの」
 そう言って、小さくくちびるをとがらせる。彼女の言葉に、残るふたりが深く何度もうなずいた。
「さいごがわからないの、つまんない」
「確かに! では、昼間に読んでいただいたほうがいいのではないでしょうか?」
 つまりは、最後まできちんと聞くために、寝る前ではなく起きていられる時間にやってほしい、ということらしい。あとは休むだけでいい夜と比べると、昼はレイシフトやミーティングなどの予定が入っているので時間を確保するのは難しいが、それでも無論まったく不可能というわけではないだろう。
「うん、時間が取れたら教えるね」
「ええ、」
 立香の返事に淡い笑みを浮かべて、ナーサリーがスカートの裾をつまみながら優雅にお辞儀をする。
「たのしみにしてるね、おかあさん」
「絶対ですよ!」
 足元にじゃれついてくるジャックとサンタ・オルタ・リリィの頭を撫でながら、立香は笑みを浮かべた。もう一度ナーサリーと立香が指切りをしたあと、彼女たちはぱたぱたと軽やかな足音とともに廊下を駆けていく。その背中を見送りながら、立香はそっとため息をついた。夜に彼女たちと過ごさなくてよくなったのは、こう言ってはなんだが、立香にとっても都合がよかった。傍らで眠る彼女たちの表情はなんともやわらかく穏やかで、夢の中はどんなにか心地よいことだろう、と思わせた。白状すれば、これ以上彼女たちに嫉妬したくなかった。そんな感情を抱くのは、どう考えても間違っているとわかっている。それでもひとりでベッドに横になって時間が経つのを待っているときよりずっと、彼女たちの寝顔を眺めながら夜を越えるのは、孤独と徒労を感じてつらかった。眠れないせいで、余裕がなくなっているのかもしれない。しかし、うれしそうな顔を見ると、自分からやめたいと言い出すことはできなかった。だから、ナーサリーの言葉には正直ほっとした。
 今日からはまた、ひとりで眠れぬ夜と向かい合うことになると思うと気が重いが、それも仕方あるまい。何か新しい方法を考えなければ、と思いながら立香はドア横の壁にもたれかかった。ひんやりと固い感触に、どこか安堵を覚える。しばらくそのまま虚空を見つめていたが、こんな姿を誰かに見られるわけにはいかないと我に返って、ゆっくりと身をひるがえす。一旦は閉じていたドアが、待ち構えていたようにしゅんとなめらかに開いて部屋の主人を受け入れる。蛍光灯に白々と照らされた室内は確かに自分のものなのに、ちっとも自分に眠りをもたらさないベッドは自分を拒絶しているように感じられる。恨めしげな目で見つめながら、またこぼれそうになったため息を飲みこんだ。
(だいじょうぶ、まだ、だいじょうぶ)
 自分に言い聞かせるように唱えながら、ベッドに横たわる。今日の夜も、また長くなりそうだ。滅入る気分を上向かせるために、今日は何の物語を用意しようか。もはやそれは眠るためではなく、退屈な夜を慰めるためのものになっていた。何かに夢中になっていれば時間を忘れられるし、余計なことを考えずに済んで気がまぎれる。
 本来であれば自然と得られるはずの睡眠をとるために、何事かを試みることに立香は疲れ始めていた。いつからか、この夜をどうやり過ごすかしか考えられなくなっていたのかもしれない。これでは、現状が改善しないのも当然だ。そのうち眠れるようになるのではないかと、楽観視していた部分もあるのかもしれない。しかし、そんな時期はたぶん疾うに過ぎていて、もうどうすればいいのかわからない。スタッフに安眠法を片端から聞いてまわるようなことは、到底できる気がしなかった。ごろごろとベッドの上で転がったあと、仰向けになって天井を見つめる。そこにはただ、夜に塗りつぶされた無機質が広がっているだけだ。もう何度、何時間、その色を眺めたことだろう。重い腕を持ち上げて、何かを求めるように虚空に手を伸ばす。掴めるようなものは何もなく、ただ虚しさを増すだけだ。
「図書室行こ、」
 誰に聞かせるともなくつぶやいて、立香はベッドから起き上がった。

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