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海について

 彼の大きな鱗の間からするにおいは、もはや都会のにおいであると、一松はとっくに気づいていた。
それでもなお、彼のことを一種の神様だと信じていた一松は、彼の信仰対象を俗に貶めるそれを、高貴な白檀の、あるいは香を焚き染めたやん語とならぬ人々の髪の香りだと思い込もうとしていたのだ。だがしかし、彼の思考がそのように思い込んだとして、さあ彼の鼻孔はといえば、職場の先輩に無理やり連れていかれたフィリピンパブの朝、油物のの甘い香りと腐敗の匂い、ネズミの走り回る路地のむせ返る廃退と嘔吐物の匂い、それらを想起させて、彼の思考とは全く別の吐き気を催したのであった。
 しかしながら、一松の目にする巨躯はすばらしく清潔でなめらかで、ひとつひとつの鱗が一松に、知らぬ海の話をしてくれるように思えた。脳で感じる美醜と、鼻孔で感じる美醜、完全に混乱し、一松は頭を抱える。お前は、お前は一体何なのだ!?
 一松の心情を知ってか知らずか、頭上から彼の鼓膜を揺らす、ひどく神のかかった声が落ちてくる。
「どうした? 一松」
 その瞳はどこまでも青く、静謐だ。その鱗からする、下卑て俗っぽい生臭さとはまったく関係ない清廉の目は、一松を真っ直ぐに射た。
 お前は、いったい、なんなのだ。一松はその喉の奥で問いかけた。兄の顔をしたお前は。お前は。お前は!!
「誰でもないさ」
 体が震える。おれの考えていることが、この巨躯の半魚半人の前では筒抜けだというのか。
「べつにそんなことないが。お前の目をみればわかるぜ」
 その口がうつくしい孤を描いた。それは、それは、それは……!松野一松の人生をめちゃくちゃにするのに十分な、孤であった。

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