ジャンル:キルミーベイベー お題:ぐふふ、善人 制限時間:4時間 読者:2583 人 文字数:12567字 お気に入り:0人

キルミーベイベーのほんとのひみつ

       「キルミーベイベーのほんとのきもち」(お題無視)

外交官の父と銀行員の母に育てられた裕福で幸福だったある少女の日常は、
ほんの一夜にして殺されてしまった。

それは凍てつく雪風が少女の頬をほんのりと、どこか嬉しそうな赤に染めていた夕暮れだった。
しかし、少女が家のドアを開けた時、少女の視界を染めた赤は、少女のあらゆる希望を拭い取った。
そして、少女は凍りついたアスファルトの路面よりも凍てついた心を持つようになった。

それは、少女の心が壊れてしまった、最後のクリスマスイブだった。

時は冷戦の後期。少女の父は母の銀行の繋がりを使って、外貨の大量取引を行なっており、
それが国内の諜報組織の対象となってしまった。それが二人の死因ではある。

しかし、そんな政治的な経緯など、少女は知る由もない。

代わりに少女を占めていたのはたった一つの思考。
(パパとママを殺した奴を殺してやる)
その一つだった。

10にも満たない少女には身寄りがなかった。
代わりに遺産だけは嫌になるほど手元に残った。

少女は札束の入ったリュックを背負うと、
大人も寄り付きはしないスラム街の奥へ向かった。

そこには町では誰もが知っているマフィアの支部があり、門番代わりのゴロツキが今日も安いタバコを吹かしていた。

少女はリュックから札束を一つ出すと、そのガラス玉のような瞳で、男にはっきりと伝えた。

「Я буду убийцей.」(わたしをころしやにしてください)



同じ時、同じ日、同じ年の少女は、誰よりも幸せなクリスマスを過ごしていた。

「おとーさん、おかえりなさい!」
少女はそういって玄関の父に飛びついた。

少女の母は後ろから微笑んでいた。
「こら。お父さんは久しぶりの日本なんだから。あんまり疲れさせちゃだめよ」
「はは。いいよ、半年ぶりだもんな。大きくなったね、やすな。」

そういって父は「やすな」と呼ばれた少女を持ち上げた。

「おとーさん!プレゼント!プレゼント!」
「まったくせっかちな子だな。ほら。外国のおみやげだ」
「いやっふぇーい!あけていい?あけていい?」
「そうだなあ。じゃあ、お母さんに内緒にするように、やすなの部屋であけてくるといい」
「はーい!」

やすなが階段を駆け上がっていった。

微笑みに満ちていた夫婦は、ふと、目を見合わせると、
真剣な顔持ちで言葉を漏らした。
「次は…もう、すぐなのね?」
「ああ…早ければ、明日か、…遅くとも今年中には日本を立たなければならない。
 やすなには…すまない。よろしく頼むよ」
「わかったわ。やすなは…いい子だから。長くなってもいいの、ただ、お願い。…ちゃんと帰ってきてあげて」
「…わかってる」

…階段の上の方から、やすなの大喜びした声が響いた。




マフィアの幹部は少女を手厚く保護した、それだけ見れば聖者の行動であった。
しかし、保護した目的は、悪魔のそれであった。

「良い。ガキに金の価値なんてわかりはしないだろう。
 その上、身よりもない、心は冷徹。組織にとってメリットだらけの「人材」ではないか」
「おっしゃるとおりです」

少女は後手をロープで結ばれ、ゴロツキの前に立たされていながら、
その場にいる誰よりも冷徹な瞳で幹部を睨んでいた。

「いいだろう。そのリュックの中身でお前を一流の殺し屋に仕立ててやろう。
 ただし、組織に反抗的な態度が見られた場合は命の保証は無いと思え。
 これは『取引き』だ。お前には復讐したい相手についての情報も提供してやろう。
 その代わり、お前には生涯組織の殺し屋として働いてもらう。それで手を打とう」

少女はその、およそ人道的という言葉からは程遠い申し出に対して、
一瞬の好きもなく頷いた。
その瞳には、さらなる恨みと決心が宿っているようだった。

「…名前を聞いておこうか」

少女は必要最低限の声の強さだけで、答えた。

「Маринина(マリーニナ)。ивлева(イブレヴァ)・Маринина(マリーニナ)」

「そうか。ではその名前は二度と使うな。これからお前が使い物になるまで、
 組織ではお前を「コード09」と呼ぶ」

少女…元「マリーニナ」は沈黙を保ったまま、ゆっくりと、頷いた。



「やだ!やだやだやだやだ!!!やーーーだーーーー!!!」

少女は大泣きしながら手足をばたつかせた。

「やすな。何度も言ってるだろ?お父さんの仕事は、なかなか家に帰ってこれないものなんだ。
 その代わり、帰ってから5日間、ずっと遊んでやったじゃないか」

「でもいやなの!もっと遊ぶの!」

母親がそっと後ろから大きな熊の人形を手渡した。
「ほら。お父さんから、日本じゃ買えないこんないいものを買ってもらったんでしょ?
 次に帰ってくる時は、もっといいものを買ってもらいましょう?」

「でも、でも…」

「そうだな。やすな。約束だ。今度はもっと大きな、うさぎの人形を買って帰ってあげよう」
「うん…」
「約束は大事だ。約束を守れない人は信頼を失うことに繋がるだろ。
 だからお父さんも、仕事の約束を守らなければ行けない。どっちの約束もお父さんは守らないといけない」
「じゃあ、じゃあ今度はおおきなうさちゃんだからね。絶対だからね!」
「ああ。約束だ。…それから、次帰ってきた時は、もっと長く…できたらずっと、家にいることにするよ」
「ほんと!やったあ!!」

この言葉には、母も驚いて父を見た。その表情は覚悟に満ちており、母はそれが本当に最後の仕事であることを感じ取った。
同時に、この約束が果たせない可能性があるのだろうということも。



マリーニナ、…いや、「コード09」は、その名の由来ともなった9歳の子供とは思えないほど、
瞬く間に「人を殺す術」を学んでいった。
たった一年後には、人体の急所、基本的な格闘術、銃火器や刃物の知識についてを習得し始めていたのだ。
そして少女の瞳はますます冷酷の色に満ちていた。
少女の心は固く閉ざされ、代わりに暗殺者としての漆黒の闇が満ちていた。

ある日、幹部から「コード09」に伝えられた情報は、少女の人生をさらに悪魔じみた方向へと導いた。

「お前の復讐相手のおおよその目星がついた」

この一年、ほとんど変わらなかった少女の表情が始めて驚嘆と、にじみ出た恨みの色に変わった。

「お前の両親が国の諜報部に消されたのは何度も話したな。
 お前の父親が銀行の金をアメリカドルと交換していた形跡が最近わかったために、そこから様々なルートがはっきりしてきた。
 どうやらお前の両親は、祖国に見切りを付けて、アメリカに情報を売っていたようなのだ。
 そして、外貨取得を名目に必要以上のドルを懐に収めていた…もちろん亡命目的だ。
 当然、アメリカと直接交渉などできるルートなど基本的には存在しない。
 にも関わらず、諜報部に消されるほどお前の両親がアメリカと通信出来たのはなぜか?」

少女は怒りと悲しみと、…父と母の顔を思い出して零れそうな涙を抑えた顔で、
その情報を一語一句覚えるかのように聞き入っていた。

「その点を重点的に調査した結果、間に通信者となった別の国の人間がいるようだ。
 そしてそれはほぼ間違いなく…日本人だ」

日本人。

少女はそれを胸に深く刻み込んだ。

「いいか、日本には他にも似たようなスパイがかなり多数紛れ込んでいる。当然、組織にとって邪魔であったり、
 …あるいは、いずれ冷戦が終わった時、現在は組織の人間だが、『その情報を持っている』ために『不要に』なる人間が現れる。
 …お前には、それらを排除するアサシンとなってもらう」

「それはつまり」

幹部は言葉を遮った。

「そうだ。お前の復讐相手も必ずそこに含まれるはずだ。
 お前にはこれから日本語を完全にマスターしてもらい、ただのスチューデントとして潜伏してもらう」

少女はゆっくりと頷いた。その表情には明白な決意が現れていた。




「おかあさん」

10歳になったやすなは、熊の人形を抱きしめながら悲しそうに聞いた。

「おとうさん、いつ帰ってくるのかな」

「やすながいい子にしていれば、必ずかえってくるわよ」

「うん…」

少女の成長は早い。幼いとはいえ、やすなは父の帰国が簡単ではないことを少しずつ感じ始めていた。

「おとうさんって、どこにいってるの?」
「さあ…ねえ。お母さんもはっきりはわからないのよ。あちこち行っているみたいだから」
これは本当のことだった。

「そっか…」
やすなは抱きしめる力をもう少し強めると、こてん、とソファの上で横になって、目を閉じた。



「…彼が、お前の日本語を教える教師になる。少なくとも1年でマスターしろ」

「…了解した」

コード09の前に、眼鏡をかけ、おおよそ屈強な男の多い組織には不釣り合いな優男が立っている。
男は日本語訛りのロシア語で話しかけた。

「じゃあ、とりあえず僕の家に行くか。1年でマスターだからな。君とはほとんど一緒に暮らすことになるだろう」

暮らす?この男と?1年も?冗談じゃない。

「勉強なんて、一人で出来る」

幹部は黒い皮椅子に体を沈めると、たしなめるように言った。

「それでは、困るんだよ。こう見えてこの男はロシア生まれだが完全なバイリンガルでね。
 要はこの男と自然に日本語で会話できて、始めてお前が役に立つのだ」

「ま、そういうわけで、よろしく頼むよ。マリーニナ。」

「コード09」は、吐き捨てるように言った。

「その名前はもう捨てた」

少女から見たその男の印象は、はっきり言って最低だった。

「そうなのかい。可愛い名前なのにもったいない。…とりあえず、それじゃあ僕の家へ行こうか」

そう言って、男は、睨まれたままの少女の手を取って、幹部の部屋を後にした。




「コード、09?」

「そうだ。それが私の名前だ」

ごくごく簡単な家具だけが置かれた狭いアパートの一室で、
それが少女と男が交わした最初の会話だった。

「でも君はもう10歳だ。それに、組織としてのコードネームはナンバー制じゃないはずだ」

少女は苛立ちながら答える。

「まだ、正式に仕事をさせてもらえないからだ。だから、お前が私に日本語を教えて、
 私が日本で仕事をするようになれば名前が与えられる」

男は顎に手を当てて、少女を改めてじっくりと観察した。
細く白い指が作る握り拳は、物を殴り慣れている形だ。
少しだけ骨格のはっきりした肩幅は、同世代の少女よりもきっと強く成長している。
瞳の奥には言い様のない闇が満ちている。

しかしそれを除けば、
それは10歳の、絹のような柔らかい金髪の、可愛らしい少女なのだ。

「…人を殺す、ということを、わかっているのかい?」

少女は一瞬絶句し、…そして爆発した。

「お前に、…お前なんかに、なにが分かる!」

ドン、とたたきつけられた小さな拳の横で、テーブルの上のホットミルクが零れていった。

「…分からないな。ああ、僕には分からない。
 ただ…僕には君と同じ年の娘がいるんだ。だから、君がきっと、そういう方向に進まなくたって生きていける。
 人を殺さなくても、幸せになれる。それは分かる」

男は少女に口を挟ませることなく、続けざまに言葉を重ねた。

「組織との契約だ。1年で君に日本語をマスターさせて上げよう。
 だけどそれは君を殺し屋にするためじゃない。そう、…僕と一緒に日本へ帰って、
 僕の娘と一緒に遊ぶといい。…きっと、君は、そうして生きるべきだ」

少女はすこし俯いたが、もう一度はっきりとした目つきで男に向かい直した。

「…私のお父さんとお母さんを殺した奴を、私は一生許すつもりはない」

男はこぼれたミルクを吹きながら答えた。

「こぼれたミルクは、もう元には戻らない。でも、注ぎ直すことはできる。
 僕は君の心にもう一度ミルクが満ちることを、祈っているよ」

「…関係ない。私は日本語さえマスターすれば、すぐに殺し屋になってやる」

「そうかい。…1年たって、日本で僕の家で一緒に暮らしても変わらなければ…そうするといい。
 だけど、それで君の悲しみが消えるとは、僕は思わないよ、ソーニャ」

少女は、何年ぶりかに、その唐突な単語を耳にして、子供らしいきょとん、とした表情になった。

「ソーニャ・・・?」

「ああ、僕の名前は Са́фин(サフィン)。これはコードネームじゃない。本名だ。
 僕のСа́(sa)と、君のина(nina)を混ぜて僕が作った、君の名前だ。組織のコードネームじゃない。
 君に「コード09」は、似合わないからね」

「ソーニャ…」

コード09、いや、「ソーニャ」は、あの絶望のクリスマスイブが過ぎてから初めて、
自分でも意識できないところで、ほんの僅かな嬉しさを感じていた。




一月後。サフィンとソーニャの暮らしはまるで平行線で、日本語を学ぶどころではなかった。

何せ、9歳からマフィアの教育ばかり受けていた少女である。
どれだけ元が裕福な家庭とはいえ、物は壊す、作法は知らない、何かにつけて殺意を振りまく。
サフィンがすこしソーニャの肩に触れただけで、関節を外されかけたことさえあった程だ。

「…ソーニャ。君には、まず女の子としての教育から始めないといけないな…」
「…うるさい。サフィン。いいから早く日本語を教えろよ」
「サフィンじゃない。先生と呼べ。それから机に肘を付けない。話し方も丁寧に。」
「…っだよ…わかったよ、先生」

3ヶ月後。

もともと知能としては非常に優秀だったソーニャは、みるみるうちに日本語を習得していった。

「『今日はとてもいい天気ですね』『明日は散歩をしたいです』」
「いいぞ、ソーニャ。発音もとても自然だ。じゃあ、今日はそろそろ昼食にしようか」
「『私は久しぶりにボルシチが食べたいんだが』」
「ソーニャ…」

サフィンは肩を落としてつぶやいた。

「君は教科書にある言葉を丁寧に、上手に喋れて、
 しかも日常会話に応用する能力まである、素晴らしい吸収力があるんだが、
 どうして日常会話になると途端にそう、乱暴な口調になるんだ。ロシア語でも、日本語でも…」

ソーニャはふてくされながら言った。

「知らねーよ、そんなこと。教科書より、サフィ…先生が普通にしゃべる日本語の方が多いんだから、
 しょうがないだろ。『こっちの方が話しやすいんだよ』」

サフィンはもう一度肩を落とした。

「まあ、自然な日本語には違いないが…」


半年後。

ソーニャはもはや、簡単な会話ならこなせるようになっていた。のだが。

「『わたしが中学生にはいったら、そうですね、部活動をがんばりたいです。テニスが好きなので』」
「『では、好きな学問はなんですか?』」
「『格闘術と、銃火器の勉強です』」
「それはだめだろソーニャ…」
「『わかってます』」

そう言って、ソーニャはクスクス、と笑った。
サフィンもそれにつられて、笑った。

「あ」
「なんだよ」

「『ソーニャがそうやって笑ったの、初めて見た気がする』」
「…っ!」

ソーニャは、自分でもそんな表情をしていたことに気づいておらず、
顔を真っ赤にして背を向けてしまった。
カーテンがたなびくように、ソーニャの透き通る金色の髪がふわり、と流れた。

「『そうだ、ソーニャ。そろそろ髪が長くなってきたね。これをあげよう』」

そういってサフィンは、黒いリボンをふたつ、ソーニャの髪に結んだ。

「『うん、可愛いよ。似合ってる。…僕の娘は髪短くしてたから、こういう髪は憧れるだろうなあ』」

ソーニャは背を向けたまま、小さな声で聞いた。

「『いいのかよ。お前…先生の娘、長いこと放っておいたままで。連絡もとってないじゃないか』」
「『ソーニャ…やっぱり、なおらないな、その話し方』」
「『質問に答えろよ』」

ソーニャは振り返ってサフィンの顔をじっと見つめた。

その眼差しに、サフィンは日本でずっと待っている娘…やすなの表情を思い返していた。

「『…大丈夫だ。僕の娘は強い子だからな。あと半年くらい我慢出来る子だよ。
  それに、ソーニャだって僕の娘みたいなものだからな。あと半年すれば、お姉さんができてきっと喜んでくれるさ』」

そう言って笑ったサフィンの顔に、「娘」という言葉に、
ソーニャはいままでにない感情が心から沸き上がって来るのを感じた。

そうして、そのクルミのようにおおきな瞳から、少しずつ、
次第に大粒の涙が流れていた。

ソーニャにはその理由が全くわからなかった。

失って、諦めて、絶望の縁に追いやっていた、「親の愛情」を、もう一度与えてくれたという、その事実に、
ソーニャはただ、泣くことしかできなかった。

…サフィンはずっと微笑んだまま、リボンのついたソーニャの頭を撫で続けていた。


1年後。

「『じゃあ、ソーニャ、僕はすこし買い物に出て行くから、ちゃんと留守番してるように』」
「『ああ』」
「『ああ、じゃなくてはい、だって、何回いったら分かるんだ…』」
「『さあな』」

ソーニャとサフィンはクスクス笑いあった。
ソーニャの日本語は、もう完全に日本人のそれと区別がつかなくなっていた。

ぱたん。

ドアが閉められ、ソーニャは一人椅子に腰掛け、テーブルに上半身を預けた。

(「…人を殺す、ということを、わかっているのかい?」)

1年前、サフィンから告げられた言葉だ。

(わかってる。私は両親を殺した奴を一生、許さないんだ。だから、殺していいんだ。
 …でも、殺さなくても、私、笑ってる。あれだけ、…あのクリスマスイブのあと、あれだけ、
 この世の全てを失って、この世の全てを恨んでいたのに。
 どうして? …どうしてかな。サフィ…先生。
 いや、おとう、さん…?)

ジリリリリリ!

けたたましい音をたてて、めったにならない電話がなった。
組織からの連絡だった。

ソーニャは慌てて受話器をとると、組織の一員としての口調で答えた

「こちらエリア331、ソー…『コード09』。どうぞ」
「コード09。2つの朗報が本部から速達された。盗聴を避けるため簡潔に伝える」
「了解した」
「一つ。君の日本語能力について十分であるという報告を受けた。早ければ明日にでも日本支部へ行ってもらうことになる」

ソーニャは幾ばくか呆然とした。
それこそが目的だったのだ。なのに、私は喜びを感じているのか?
ソーニャが自分自身への答えを出す間もなく、組織の抑揚のない声が受話器から流れてきた。

「二つ。君の両親を殺した人物が判明した」

手が震える。唇が冷たくなる。ソーニャは受話器を落としそうになった。
気持ちが揺らいでいるままに、これから「人を殺す」という具体的な現実に直面したのだ。
しかし、次に告げられた言葉を聞いて、
ソーニャの心にいつか味わったこの世の終わりのような絶望が蘇った。

「名前は折部・Са́фин。ロシア人と日本人のハーフで、組織の一員であり、スパイだった。
 つまりコード09の日本語教師、その人物だ」

ソーニャはそれで、その絶望の種類を正確に思い出していた。
あの、クリスマスイブに味わった、「両親の喪失」と同じものだったのだ。

「奴には完全に裏をかかれていた。まさか諜報部が組織内にいるとも、
 アメリカとの二重スパイをしている日系人がいるとも想定されていなかったからな。
 ただ一つ、奴が数年前にアメリカ製の人形を買っていた形跡を見つけた事が決め手になった。
 奴ほどの男がそんな初歩的なミスをするとは考えられなかったという点もあるが…」
 
ソーニャの耳にはほとんどそれは通じていない。

「コード09。聞こえているか。君に最初の命令を下す。奴は君の仇であり、組織の反逆者となる。
 彼の殺害が最初の指令だ。任務を終えたら本部へ連絡しろ。以上だ」

ツー、ツー、ツー。


(仇。かたき。『カタキ』?サフィンが、殺した。おとうさんを。おかあさんを。
 おとうさんはサフィン?私は恨んでる。恨んでるから殺す。サフィンを殺す?おとうさんを、ころす…?
 わたしは。わたしは。わたしは)

「あ…」

「ああああああああああああ」

ソーニャはテーブルに寄りかかるようにうずくまった。
腕を振り回して、食べ残したままの食器をガチャンガチャン床に落とした。
机の上で割れたグラスの破片がソーニャの指先を傷つけて、赤い血が流れた。

赤。

…ドクン。

………


「ただいまーっ!」

マリーニナは雪に濡れ始めたブーツで滑らないように、
ドアの前に走りながら叫んだ。
クリスマスイブのご馳走を楽しみにしているマリーニナは、
ドアを開けるよりさきに叫んだ。
おかあさんがドアを開けて、マリーニナを迎えてくれるはずだった。

返事はなかった。

マリーニナはブーツの紐を軽く緩めながら、
ドアを開けた。

赤。

…ドクン。


………

食器がめちゃめちゃになったリビング。

テーブルの上にはソーニャの指先から落ちた小さな血痕と、

果物ナイフが残っていた。

(わたしは)






赤。








「…こちらコード09、任務を終えた。次の任務予定について報告を希望する」
「…コード09、よくやった。次の指令を与える前に、君を正式な組織の一員として認めよう。
 そして改めて君にコードネームを」
「ソーニャだ」
「何?」
「私が今決めた。私は以降ソーニャと名乗る」
「…了解した。では次の任務だ。前回のターゲットは日本に親族がいることは知っているな。
 その親族が組織の情報を外部に漏らす可能性がある。
 君には彼らの調査、場合によっては殺害を主に行なってもらう。
 また、それと並行しながら日本にいるターゲットを随時スナイプしてもらう。
 詳細については日本支部にて。では以上だ」
「了解した」

(わたしは、殺し屋。
 わたしは、殺し屋。
 わたしは…ころしや。)

いつかの雪の日。

「Я буду убийцей.」(わたしをころしやにしてください)

自分が発した言葉が、まるで他人の言葉のように、ソーニャの心に響いた。




「…そうなんですね…いえ、私もあの人の妻です。わかっています」

ガチャン。受話器を切ると、やすなの母は荷造りを始めた。

「やすな」

「なに?お母さん…」

11歳のやすなは、電話のただならない雰囲気を、悟っていた。

「…お父さんの仕事について、本当のことを話さなきゃならない時がきたの」

「…お父さんの…?」

それは、11歳の子にはあまりにも重く、厳しく、そして絶望的な現実だった。

父はロシアのマフィア、ロシアの諜報部、アメリカ国家の3重スパイであり、もしもの時があれば、
やすな達にも組織の手が伸びる可能性がある。
そのため数年は身を隠さなければならないということを、可能な限り11歳の子にも分かるように、
やすなの母は伝えた。

しかし、父親が、…サフィンが殺されたことは終ぞ伝えることはできず、
危険を避けるため他国に亡命して、日本にはしばらく帰れそうにない、という嘘を付いた。

やすなはしかし、どこかでその覚悟ができていたのかもしれない。

部屋に走って、あのおおきな熊の人形を抱いて戻ってくると、
「わかったよ、おかあさん。おとうさんが帰ってこれるまで…がんばるよ」

母親は、いつしか大きくなったやすなを少しだけ見つめると、優しく、しかししっかりと、抱き寄せた。




それから4年の月日が経った。

ペレストロイカの影響はマフィアの末端組織にまで浸透し、
ソーニャの組織の方針も大きく変更していた。

ソーニャはその間、逃げ隠れていたサフィンの家族を見つけることさえできず、

ただ淡々と、任務に従っていた。

(わたしは、ころしや)

それだけを、心のなかで繰り返しながら。

ソーニャはいつしか、本当の殺し屋になっていた。

「こちらソーニャ。任務完了した。次の任務について情報求む」
「…了解した。次の任務だが、サフィンの親族が転居した形跡が発見された」

ドクン。

ソーニャの心臓が、どの感情ともつかない理由で鳴った。

「しかし、グラスノスチの影響で表立った行動が難しい。
 君にはサフィンの娘が通うと想定される高校を割り出し、留学生となることで観察を行なって欲しい。
 殺害の必要性は今のところ無い。その他ターゲットが生じれば随時連絡する。
 書類等はこちらで手配する。以上だ」

「…了解した」

ソーニャは、サフィンのあの微笑みを、思い出さないように、それだけを考えていた。



「えー!高校、いって、いいのー!」

15歳になったやすなが喜びの声を上げた。

「そうよ。いままで…苦労ばっかりかけて、ごめんね。やすな…
 お父さんの関係の人の話だと、もうしばらくは私たちが危険にさらされることは少ないだろうって。
 これで、家の中だけで勉強しなくてもよくなるのよ…」

「ともだち、できるかなー!」

「できるわ。きっと。これから、普通の生活も、ね」

「わーい、わーい、とっもだちひゃっくにん、つくるぞー!」

4年間、ほとんど母以外との人間と接しなかったやすなは、まるで11歳のまま時が止まったように幼く叫んだ。




「…ここか」

ソーニャは入学先に選んだ1つ目の学校へ着くと、
通学する他の学生たちの間で、校舎を見つめてしばし立ちすくんでいた。

…そのとき、

「ねえ!ねえ!」

とん。

嬌声と共にソーニャの肩に手が置かれた。

「!」

反射的にソーニャの腕がその手をひねりあげた。

「ひやぁあああああ!痛い痛い!」

「あ…ごめん…」

一般人に手を上げてしまった自分を落ち着かせようとしたその時だった。

ソーニャには、はっきりとわかったのだ。

その子が、サフィンの娘であることを。

それは顔立ちなのかもしれない。雰囲気なのかもしれない。
それとも、ここで最初に出会ったという、運命がそう思わせたのかもしれない。

ただソーニャには、…確信があった。

「痛いよう…どうしたの?急に…」

「あ、いや、その…実は仕事柄、そういう、その…」

「えっ。じゃあ何、キミって、殺し屋さんとか、だったりしてー?」

「は、はは。そんなわけ…」

そこでソーニャは気づいた。

私は。この子の父親を殺したんだ。

私は。殺し屋だ。

私は、この子を不幸にさせたんだ。

(「こぼれたミルクは、もう元には戻らない。でも、注ぎ直すことはできる。
 僕は君の心にもう一度ミルクが満ちることを、祈っているよ」)

サフィンのいつかの言葉が、急に舞い戻ってきた。

(私はこの子のミルクをこぼしてしまった。でも、それは注ぎ直すことができるのかもしれない。
それが出来るのは、私だけなのかもしれない)

嘘をつくのは、やめよう。

「…秘密だぞ。実は私…殺し屋なんだ」

「えっ…す、すっごーい!わたし、折部やすな!よろしくね!」

「私はソーニャ。ロシアからの転校生だ。殺し屋っていうことは、秘密だからな」

二人は軽く、握手した。

「ソーニャちゃん、かあ。日本語、上手だね。でもなんか、男の人の喋り方みたい」

「まあな、先生が…先生が、男だったから、しかたないな」

一瞬だけソーニャの頭にサフィンとの生活が浮かんで、ソーニャは涙が零れそうになるのをこらえた。

「ふーん。でもソーニャちゃん、殺し屋なんかして…大丈夫なの?危ない目にあったりしない?」

「そりゃあ、あうこともある。でも、私は組織の一員だからな。わかってて殺し屋やってるわけだし」

「…家族とか、心配してないの?」

「…家族なんていない」

「…そっか…なんか、ごめんね」

「…いや…気にするな」


ソーニャは気づいていなかった。

やすなは、知らず知らずのうちに、自分の父親とソーニャを重ねあわせていたのだ。

それは、ソーニャの境遇のせいかもしれない。
それは、サフィンの口癖がソーニャに移っていたのを、やすなが感じ取ったせいかもしれない。
それは、ソーニャが無意識に出していた、やすなへの優しさの空気かもしれない。

いずれにしても、やすなの、父親に帰ってきて欲しい気持ちは、
ソーニャに殺し屋を止めて欲しい気持ちに増幅されていたのだった。




そうして、ソーニャとやすなの日常は始まった。

ソーニャはサフィンとあまりに違うやすなの呑気さ(それは、空白の4年間に原因があったのだが)に、
少しばかりうんざりしつつも、サフィンの面影を感じて、やすなから離れることができなかった。

やすなは父親がロシアのスパイだったなんてことは絶対に言えないけれど、
いつか父親が家に帰ってきてくれる気持ちをソーニャに投影して、いつもソーニャにつきまとっていた。



ソーニャは思う。

このまま二人でいるのかな。
いつか組織の命令で、やすなを殺す指令が来るんだろうか。
その日まで、
楽しい時間がいいのかな。それで、すこしでもやすなは救われるんだろうか。
サフィンの思い出を浮かべてる、そんなこと、
知らないままでもいいのかな。
本当の気持ちは秘密だよ。…秘密かも。


やすなは思う。

このまま二人でいるのかな。
いつか組織の命令で、ソーニャがいなくなるときが来るんだろうか。
その日まで、
楽しい時間がいいのかな。それで、すこしでもソーニャは殺し屋をやめてくれる気になるんだろうか。
時々お父さんのことを思い出してる、そんなこと、
知らないままでもいいのかな。
本当の気持ちは秘密だよ。…秘密かも。



二人の嵐のような半生が過ぎた後、
過去を語るにも落ちていく。
思い返す度に起こるような、
目眩を振りほどいて、3つ数えたら、また、
何気ない日常を演じるように、生きていく。


ソーニャは言葉に出せないけれど、きっと感じている。
やすなのことが好きなんだ。私のせいで不幸になったのなら、私自身を殺したいほど。

やすなは言葉にだせないけれど、きっと感じている。
ソーニャのことが好きなんだ。ソーニャが何処かへ行ってしまうのなら、私自身を殺して欲しいほど。


とりあえずの友達であれば、ただ、笑い返すけど。




でも、おとなになるまで、いいのかな。

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「おじゃまします、アスナです」来た。隣室のターゲットを仕留める為入ったホテル。あぎりに『時間繋ぎの用意はしてありますよ〜』と言われて身構えていたが、ただのレズ風 〈続きを読む〉

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作者:びお~ら ジャンル:キルミーベイベー お題:大きな成功 制限時間:15分 読者:36 人 文字数:488字 お気に入り:0人
部屋の隅、膝を抱えて座り込んだ。不採用の通知は破り捨てた。社会不適合者の自分が憎かった。「ただいま、ソーニャちゃん」スーツ姿の女の人は、今日もこのアパートに帰っ 〈続きを読む〉

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作者:びお~ら ジャンル:キルミーベイベー お題:有名な螺旋 制限時間:15分 読者:19 人 文字数:475字 お気に入り:0人
重さを感じて目が覚める。もぞり。仰向けのまま体が動かない。「ぁ……おはよ、ソーニャちゃん」バツの悪い顔をしたやすなが、私を正面から覗き込む。跨られている、のか。 〈続きを読む〉

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作者:びお~ら ジャンル:キルミーベイベー お題:素晴らしい船 制限時間:15分 読者:23 人 文字数:689字 お気に入り:0人
「「おぉぉ……!!!」」「どうでしょうか〜」あぎりに突然、港へ呼び出された。無理やり着いてきたやすなと一緒に指定された所へ行くと、満足そうな顔のあぎりがそれなり 〈続きを読む〉

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手紙 ※未完
作者:びお~ら ジャンル:キルミーベイベー お題:愛すべき失踪 制限時間:15分 読者:9 人 文字数:493字 お気に入り:0人
「……はっ、」食卓に座ったまま寝ちゃってたみたい。時計を見たら深夜二時過ぎ、今日はもうベットに移動した方がいいかな。「くぁ…………」長いあくびがでた。ソーニャち 〈続きを読む〉

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作者:ひよっ工房 ジャンル:キルミーベイベー お題:かっこ悪い囚人 制限時間:15分 読者:84 人 文字数:395字 お気に入り:0人
「おい、時間だ」無愛想だが優しげな声が独房の私を連れ出す。ようやくやすなに会える。やすなに触れられる。「ソーニャちゃんっ!」囲いから出たところで飛び付いてきたの 〈続きを読む〉

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作者:ひよっ工房 ジャンル:キルミーベイベー お題:可愛いお天気雨 制限時間:15分 読者:87 人 文字数:474字 お気に入り:0人
「ねね、ソーニャちゃん!狐の嫁入りって知ってる?」「なんだよそれ、縁起悪そうだな」「お天気雨が降ると、どこかで狐の嫁入りがあるっていう言い伝えですね〜」確かに今 〈続きを読む〉

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作者:ひよっ工房 ジャンル:キルミーベイベー お題:せつない武器 制限時間:15分 読者:97 人 文字数:542字 お気に入り:0人
「なんだよ、これ……」思わず手に掴んだそれを投げ捨てた。新しい武器ですよぉとあぎりに貰った怪しい紙袋、中から出てきたのは……所謂、大人の玩具。「確かに、次のター 〈続きを読む〉

なーりの即興 二次小説


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作者:なーり ジャンル:キルミーベイベー お題:ぐふふ、善人 制限時間:4時間 読者:2583 人 文字数:12567字 お気に入り:0人
「キルミーベイベーのほんとのきもち」(お題無視)外交官の父と銀行員の母に育てられた裕福で幸福だったある少女の日常は、ほんの一夜にして殺されてしまった。それは凍 〈続きを読む〉