ジャンル:LDC お題:薄汚い口 必須要素:スラム街 制限時間:2時間 読者:318 人 文字数:4428字 お気に入り:0人

ヘヴンリータナトスブルー(4-2)

 力が抜けた。
 全身の力が抜けて、よく、わからなくなった。目の前にいる男がなにを考えているのか、夏樹にはわからなかった。わかったことなんてなかったような気もした。目の前の男がなにを考えているのか、わかったことなどなかったような気がした。音を見た。音は目を丸くして、驚いたような顔をしていて、まったくのからっぽに見えて、夏樹はだまって手を伸ばして音の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。子供にするようにそうして、それから、小さな声で、夏樹は呟いた。
「……おまえは気持ちわるいよ」
「……そうだな、おまえは俺が、きらいだから」
「春人、いつそんなもの買ったの?」
 第三者の声。第三者の声から夏樹はログアウトしている。彼女は夏樹の存在を認識しない。夏樹の存在を忘れたように彼女は歩み寄り、ベッドサイドのちいさな戸棚の上に置かれたノートの上から、ペンをとりあげた。高級そうな、黒と金色の、ペンだった。
「すてきね」
「……ありがとうございます、おかあさん」
「音が」
 そこに存在しない第三者である夏樹は震える声で呟いている。それはもはや誰に向かうわけでもない言葉だった。だってそこには春人すら存在しない。音はうつむいて春人の手をぎゅっと握っている。春人は管理された笑顔を夏樹に向けている。そうしてそこには夏樹はもう存在しなくなっていてだから夏樹の言葉はどこにも、届かない。
「……音がどうしておまえなんかを好きになったのかわかんねーよ、わかんない、ほんとわかんない、どうしておまえなんかを好きになったんだ? おまえは気障で厭味で嫌な奴だ、……ペンまで気取ってる」
「……うん、おまえは、俺を、きらいだものな」
 繰り返して言った春人の言葉がほんとうにとてもとてもとても、遠くから、聞こえる。
「おまえが俺をきらいなのは、あたりまえのことだと思うよ。お母さん、俺は、知ってるんです、お母さんが望む通りの俺以外の俺なんて、どこにも存在しないってこと。俺を作ったのはお母さんで、それから、ほかのいろいろな人で、俺は作り物の人間で、みんなが俺を上手に俺を作ってくれて、だから俺がほんとうに存在しているのかどうかわからない。香田春人なんて人間は存在しないんじゃないか? でもべつにそれでもいいんだ。夏樹、宇宙はいつも膨張しているんだよ。俺がちっぽけなくだらない人間だが、そもそもそうではない人間なんていないんだ。だからそれでいいんだ」
 話が通じない。通じたことがない。
 それでも、それでも、それでもだ、音をそこに残してゆくよりほかになかった。
 音は春人のものだった。春人に向かって、春人に向かってだけ、音は、笑いかけていた。
 車免を持ってねーの、と尋ねたら、おまえ持ってんの、と、さも愉快なことを問いかけるように言った。ベッドの上でだらだらと転がって、どっか行こうぜと夏樹は行って、いつかな、と、音は笑いながら言った。いつか行こう、そのうち行こう。歌うように、あやすように、音はそう言って、夏樹はむきになって「海に行こう」と言った。「ミッフィーさんは海に行くんだぜ、お父さんと、海に行くんだ」

 子供の頃会ったことがあるということを、春人が覚えているのかどうか、知らない。
 病院の息子として生まれたくて生まれたわけではなかった。そもそもなにかになりたくて生まれたわけではなかった。たぶんとてもとても平凡な子供だったと思う。ごくあたりまえに親に反応してごくあたりまえにバンドなんkをやってごくあたりまえに才能がなくてやめて。早久良音の書く小説を読んで、おもしろいと褒めたら、おまえはほんとうに頭の出来が下等だなあと言った音はいじらしいものを見るように笑っていたから動物になったような気持ちで、賢い奴はたいへんだなと笑っていられた。おどろくほどやさしくされていたのではははと笑って、笑って、笑って、ただ単にやさしくされて、し合っていた、ぬるま湯をごくごくと飲むように。
 愚かであることは別に悪いことではないと早久良音は言ったと思う。
 愚かであることは別に悪いことではないと、かつて夏樹も知っていたはずだ。
 物語が狂い始めたのはもっとずっとあとになってから、春人が、香田春人という名前になったあとのことだ。
 ――悪い出会いではなかったと思う。
 夏樹の父の病院で、夏樹はいつもうろうろと遊び回っていた。広くて白い廊下、人で賑わう待合室、それらはすべて夏樹の王国だった。夏樹はまちがったことはしなかったので、医師や看護師たちに可愛がられた。してはいけないと言われた言いつけはきちんと守ったし、飛び跳ねて遊ぶより絵本を繰るほうが好きだった。
 絵本の中から出てきたように見えるハルトという名前の男の子と、あるときからよく会うようになって、それが夏樹の父とハルトの母との間にある交情を示すものだということに気づいたのはずっとあとになってからのことだった。ハルトの父はゆっくりと死んでゆき、ハルトの母とハルトはなんども病院にやってきて、けれどハルトも母親も、父親とは違う場所にいることのほうが多かった。
 やがてハルトの父は転院していき、最期は香田医院では迎えなかった。にもかかわらずハルトの母は、夏樹の視界の端につねにあったしそれは夏樹にとってありがたい物語でもなかった。夏樹の目の前で両親は破局し、夏樹の母は代替わりをした。そうして夏樹の新しい母――ハルト、春人、の母は、つねに夏樹を視界の外に置き、夏樹の存在をなんの問題にもしなかった。夏樹がどんな問題行動を起こしても、起こさなくても、テストで何点を取っても、赤点を取っても、バンドを組んでも、やめても、大学をやめても、仕事をやめても。全部彼女にとってはなんの問題にもならなかった。夏樹の存在は完全に無視されていた。彼女の人生に、香田医院の院長との恋愛と、彼女の自慢の息子は含まれていても、そこにオプションとして用意された香田夏樹は、問題にされていなかった。
 別にだからどうだということでもない。
 ただわからないだけだ。
 ただなにもわからなかっただけだ。自分が存在している意味が、わからなかっただけだ。香田夏樹は実在するのか?
 わからない。
 けれど同時に、香田春人が存在するのかどうかも、わからなかった。
 ドイツ人の祖父が名付けたというハルトという名前に、春人、と字が宛てられていること、春人の誕生日が四月一日であるということ、なにもかもすべて悪い冗談のような、香田という性を得た春人、香田春人。兄弟として生まれたわけではないのに、生まれながらの兄弟のようだ。夏生まれの夏樹と春生まれの春人。名前だけ見たら完璧に調和した兄弟のように見えてそうして、
 そうして……
 たぶん。
 それでも夏樹は、心から、心の底から春人が嫌いだったけれどそれは、春人が自分に、どこか、似ているからなのだと思っていた。春人にはなかみがなかった。まったくのからっぽだった。春人は母親がしろと言ったことをやり、与えられたままの服を着て、勧められるままの進学校に通った。なにか運動部にでも入ったらと言われて、陸上部に入った。そうして毎日毎日、学校へ行って、勉強をして、それから走って、それだけで生きていた。
 春人が恋愛をしたときすら夏樹は安心することができなかった。それはあまりにも予定調和としての恋愛だったから、香田春人がするべき恋愛だったから。完璧に品の良い、えそらごとのような、カップルだったからそれを、夏樹は信じなかった。
 夏樹が春人を信じたのは、二度だけだ。
 宇宙を学ぶために大学に行くと言いだしたときと、
 音と付き合い始めて、服装が崩れ始めたときだった。
「母さんに怒られるぜ」
「そうだな、怒られるかもな」
 あかるい色のTシャツを着た春人をミッフィー展の前でつかまえて、言いたかったことがほんとうにそれだったのかどうかわからない。春人はいたずら小僧のように笑ってそれは、夏樹の知っている顔だった、夏樹がいつか見た顔だった、ほんとうに、ほんとうに、昔、出会ったばかりの頃――
 ミッフィーさんっていうんだよ。
「夏樹」
 笑って春人は耳打ちをした。ただの兄弟のように。なにもかも。なにもかもすべてが転がってゆくまえ。何もかもすべてが転がってダメになってしまう前になにもかもがわけがわからないものになってしまうまえに夏樹には理解できないなにかが起こってわけがわからなくなってしまう前にあのとき春人はたしかにただの青年の顔をしていた。
「海にいけるかもしれないよ」

 電話が鳴って、切れた。
 それからもう一度鳴った。スマートフォンを見た。春人だった。深夜。夜三時。春人のかけてきた電話に、出る必要はなかったのに、どして出たのだろう。夏樹は春人にはなれなくて、夏樹はいないも同然のものとして扱われて、だから夏樹のほうだって、いつだって、さっさと、春人の存在を忘れてしまったほうがよかったのに、いつも夏樹は――そうだった、早久良音は、笑って言った、夏樹のこれは春人になりたいからだと、春人になりたいから春人に張り合うために頑張っているのだと、早久良音が言った。言ったから、そうしてはじめて、音が言ったから、春人を好きになれるのではないかと、思い始めたのだった。春人を好きになれたらいいのにと、思ったのだった。
 べつに嫌いになりたかったわけではなかった。できることなら春人を好きでいたかった。好きになりたいのに嫌いなふりをするなんてばかげているから。
 だから。
 電話を取った。電話の向こうで春人は沈黙しそしてそのまま黙り込んだ。ざわっと胸が音を立てて泣きたくなったのはからかわれているからだと思ったからだった。
「気持ち悪い」
 ぷつん。

「おれのミッフィーさんかしてやるな」
「ミッフィーさんっていうの」
「そうだよ、ミッフィーさんはオランダのうさぎ」
「ぼくのおじいさんはドイツのひと」
「おまえがいじん?」
「ちょっとだけ」
「いいな、ミッフィーさんにでてくるこどもみたいなあたまのいろ。へんないろ。いいな」
「ありがとう」
「ミッフィーさんおもしろいからかってもらえよ。うみにいくんだぞ」
「うん、かってもらう」
「ハルト、帰るわよ」
「はい、おかあさん。ばいばい」
「ばいばい」
「どうしたの、髪ぐしゃぐしゃね。悪い子と遊んじゃだめよ」
「……はい、おかあさん、ごめんなさい」

 ユーハイムはちいさな声を立てた。夏樹は、なに、と耳を澄ませた。ユーハは喉からどうにかして言葉を作り出そうとして、何度か音を立てて、それから唐突に、夏樹は理解した。
 うみ。
「……そうだよ、ミッフィーさんは、海に、行くんだ」
 それはとてもきらきらと青くて青くて青くて、青すぎるから目が、痛くて、それだけなんだ。

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